「悲空の手紙」  夕日の沈む相模湾を一望できるマンションの一室で私はしばしペン休 めて、猫を膝に乗せて沈みゆく夕日を感慨無量に眺めていた。  平成7年8月15日…この日はあの忌まわしい戦争が終わってから半 世紀が過ぎた日である。  この日の数週間前から、テレビでは戦後50周年特集として色々なド キュメント番組が放送されている。しかし、そのどれもが第三者的な視 点になって作られている。  当時、銃後で勤務していた私が言うのもおこがましいが、明日の日本 を信じて必死に戦った日々を経験した人々は今では皆年老い、その必死 になって戦った日々を今では社会の主導権を握る戦争を知らない人々が 歴史の一事件としてあれこれ評論批判する時代になった…  今私が執筆をしている回顧録も実を言えば、戦後50周年記念にあや かる知り合いの出版社の人に懇願されて書いている物である。しかし彼 の思惑とは違い、私の執筆は遅々として進まず、この頃では電話すらし てこない。  この歴史的事件キャンペーンも今日が限り、明日からは、今騒いでる 人々の記憶から多分抹消されるだろう…でも、私はこの回顧録の執筆を やめる気はない。これは、私と私の弟のつらい思い出として、子供達に 伝えたいと思っているから…  …今でも弟の夢を見る。そこに出てくる弟は、ある時は幼い頃姿であ ったり、また戦争中事実上最後の別れになってしまった当時、金沢八景 に在った私の自宅の玄関で見た軍服姿であったりするが、夢に出てくる 弟はいつも笑顔であった。  しかし、弟の悲しげな表情を見ることがある。それは決まって弟の最 後の手紙を受け取ったときの日であり、しかも、その日の出来事が忠実 に再現されて…  戦争中、筆忠実な弟の戦場からの手紙を元にして書いてきたこの回顧 録も戦争末期の頁で筆が止まっている。  私としてはこの先こそが是非書きたかったところであるが、弟の最後 の手紙を読み返す度に涙が出てきて書けなくなる。  …今書いている話は、弟の手紙を受け取った日の1年前、終戦間近の ある日から始まる…  戦争中、私は海軍軍医として海軍横須賀鎮守府に勤務していた。また、 弟は同じく陸軍軍医として南方の戦線に赴いていた。  戦争も終わりに近くなった昭和20年春、連日のように帝都や工場地 帯を爆撃している敵機がまったくここには来ないこと不審に思いつつ、 日々のほほんとしていた。  時折入港してくる軍艦から担架に乗せられてくる負傷者と弟からの手 紙を見ると、「嗚呼、戦争しているんだな…」と感じる程度であった。  その弟からの手紙がここの所途絶えているので心配になってきたある 日、私の元に手紙が来た。  それも、伊号の艦長が直々私の元に持ってきた。  この日の午後、被弾した伊号潜水艦が入港した。2カ月前に補給物資 を満載して出ていった新鋭艦である。  この艦に負傷者が居るというので、私はまだ幼さが残る看護婦と共に 潜水艦桟橋に赴いた。  潜水艦桟橋に横付けになった潜水艦は、こいつが2カ月前に出港した 新鋭艦かと思えるぐらいに、艦橋構造物は破壊され、一塊の鉄の塊と化 していた。  その鉄の塊の上で、艦長らしき人物が指揮を採っていたが、白衣を着 た私の姿を認めると、そこから降りてきた。  「軍医殿、ご苦労さまです」  髭面のぼろぼろの艦長服を纏った若い大尉は、私に向かって不動の姿 勢で敬礼をした。  「負傷者は?」  「後甲板に…」  艦長の案内で後甲板に行くと、そこには息も絶え絶えの負傷者が横た わっていた…どうやら、敵の爆撃を受けたらしい…  私は、早速負傷者を診た。負傷者は今この場で手術しないと助からな い…私は、無意識に手元の鞄から注射器のケースとアンプルのケースを 取り出し、注射器に注射針を付け、アンプルケースを開けたが、中には 一つのアンプルも無かった…  私は、隣にいた看護婦に  「麻酔を…」 と言ったが、看護婦もカラになったアンプルのケースを私に見せて悲し げな顔をして静かに首を横に振った…物資の不足は帝都に近いこの防衛 拠点にも着実に来ていた…  すかさず私は、  「おい、お前達!こいつの手足を押さえろ!」  私の号令に負傷者の周囲に取り巻いていた乗組員が、思い思いに負傷 者の手足を押さえる。  私は負傷者の口に木の棒をくわえさせ。  「いいか!少々痛いが我慢しろ!!」 と、負傷者の傷口に消毒用のアルコールをかけ、いきなりメスで傷口を 切開した。  とたんに、負傷者の口からくぐもったうめき声が発せられた。暴れる 負傷者を叱咤激励しながら、私は患者の傷口から爆弾の破片を取り除い た。  苦労して患者の傷口から爆弾の破片を取り除き一息付いたところに、 艦長が一言文句をいいたげな顔をして近づいてきた。  私は艦長に煙草を勧めながら、  「すまんな、内地と言えども医薬品が不足しているのでせっかく君達 が苦労して還ってきてもこの有り様だ」 と言うと、艦長は私の苦境を察してくれたらしく、黙って煙草を受け取 った。  私は艦橋であったであろう破壊された鉄の塊を見上げ、そして艦長の 風体をしげしげと見つめて言った。  「見た所大変だったようだが…君も怪我をしているのでないのかね? 診てあげよう」  私が艦長を診ようとすると、若い艦長は  「いいえ、自分よりもまず負傷した部下をお願いします」 と言って固辞した。  勧めた煙草に火を付け、うまそうに2,3服すると艦長はおもむろに 私の方に向かって、  「ところで、軍医殿。この基地の軍医の方で富田少佐と言う人がおら れると聞きましたが…  私は、今まで面識のないこの艦長から自分の名前を尋ねられて、  「富田は私だが…?なにか用かね?」 と怪訝そうな顔で言った。  「軍医殿がそうであられましたか…軍医殿の弟さんからの手紙を預か って参りました」  「なに?弟から…?」  艦長は、ぼろぼろの艦長服の懐から丁寧に油紙に包まれた書簡らしき 物を私に差し出した。  「…ありがとう、しかし、なぜ…?」  「それは…」  艦長の話はこうであった…南方の潜水艦基地に物資を補給に行ったこ の艦は物資を殆ど陸揚げしないまま、最前線の島に物資を輸送する任務 に当てられた。  その輸送した島の守備隊が私の弟の居る部隊であったそうである。ま た、同時にこの艦は島の司令部の高官を数名連れて帰ってくることにな っており、その中には私の弟の名前も入っていたが、弟は島に残る負傷 者を残していけないと島を出ることを固辞し、代わりに私宛の手紙をこ の艦長に託したという…  その手紙には、日増しに激しくなる敵の艦砲射撃の様子や敵機の爆撃 の様子が事細かに書かれ、不安にかられながらも、守備隊の士気は旺盛 である旨が書いてあった…  「…あいつらしい…」  私は、軍医務室の自分の机に腰掛け、弟の手紙を読みながら、呟いた。  それから、3カ月後…  弟の手紙を持ってきた艦長の潜水艦は、突貫工事の上修理が完了し、 再び補給物資を満載し、南方の戦線に向かって出港していった…そして、 その艦は二度と横須賀港に帰ってこなかった…  それから間もなくして、天皇陛下の玉音放送があり長い戦争が終わっ た。その途端、米軍が横須賀港に進駐し、我々は基地を追い出されてし まった…  取り合えず、金沢八景の家に帰って町医者を開いたはいいが、終戦直 後の物資不足の折り、医薬品などはとうてい手に入る宛もなく、私の診 察所は開店休業の様を呈していた。  私の軍医仲間の中には、昔のつてを頼って、闇で流れている進駐軍の 医療品を手に入れあくどい商売をしているのもいたが、私はそれをする 気にはなれなかった…  …そうこうしている内に、私と私の家族は食べていけなくなってしま った。  そのとき、丁度横須賀に居る進駐軍が日本人医師を募集していたので、 私は家族の反対を押し切り、近所に「非国民」の罵声を浴びるのを覚悟 の上で、この募集に応募した。  こうして、私はまた横須賀港で医者として食べていけるようになった。  …そして、終戦から年を越した春、私はふと知り合いになった米軍の 情報将校から、意外な物を渡された…それは、私の弟からの2通の手紙 であった…  手紙の内、1通は彼の乗艦していた巡洋艦で拾った物であり、もう1 通は彼の目の前で自殺した弟の懐に入っていた物だと言う。話を聞くと その将校は、この手紙を手に入れるまでの事を細かく話してくれた。  巡洋艦に乗艦して南方(私の弟の居る島)に向かっている最中、艦隊 は所属不明の潜水艦に対して、爆雷攻撃を行った。  その潜水艦はあっけなく撃沈されたが、その遺留物の中に油紙で包ま れたこの手紙があったという。  また、島に上陸して日本軍の抵抗を排除しつつ進撃し、とうとう彼ら は、島の端にまで日本兵を追いつめた。  そして最後の抵抗をして玉砕した日本人将兵の中に弟の遺骸を発見し、 情報を得るために、弟の懐にあった書簡を手に入れたそうである。  彼は、これらの書簡を分析したが、その中には軍に関する重要な記述 は無かったが、書いてある内容は彼らにとってもショックな事であり、 且つ彼の心に感動を与えたため、彼はこの2通の手紙をどうしても家族 に渡したいと思っていたそうである。  私は、彼の目の前で手紙を開いて読んだ…その手紙にはこう書かれて いた。  1通目の潜水艦からの手紙には、連日の敵の攻撃に負傷者が見る間に 増えていく様子が事細かに書かれ、医薬品の不足を嘆く様子と自分自身 に迫り来る敵への恐怖がつづられていた。  また、弟の遺骸から発見された手紙には、敵の数に勝る攻撃の前にず るずると後退する様が書かれていて、玉砕の様子と私や両親に宛てた遺 書が書かれていたが、その中でも、私自身も恐怖に背筋が凍った一文が あった…  …それは、後退の途中で足手まといになった重傷者に対し、弟は上官 の命令でやむなく”空気注射”をしたと言う事実が書かれていたのであ る。  人間は、その体内に空気を取り込んで生きているが、血管に空気が入 ると人間はあっさり死んでしまう。  弟は上官の命令と、医療品の欠乏から泣く泣く重傷の患者に対して、 栄養剤と偽り、空の注射をしたというのだ…私の目には涙ながらに重傷 の患者の腕に空の注射針を突き立てている弟の姿がありありと浮かんで きた。  それ見た瞬間、私は隅に血が付いた弟の最後の手紙を握りしめ、地面 に膝をつき、大粒の涙を流して弟の名を叫び慟哭した…  …あれから半世紀が過ぎ、医薬品も医療品も巷に豊富にあり、しかも 医療も発展し、重傷の怪我でも死ななくなっている。  私は、私と弟が経験した苦難と悲しみの日々を子供や孫に経験して貰 いたくないと思って、この回顧録の筆を一文字一文字づつに思いを込め ゆっくりと書き綴っている。 藤次郎正秀